351/365 Books are like mirrors / rennes.i |
こんにちは!すなふ(@sunafu35)です。
北方謙三さん著の「三国志」全13巻読み終わりました。久しぶりに、こういったシリーズ読んだなぁって印象です。
もともと、三国志という物語を知ったのは、多分ゲームだと思うんですね。KOEIの。
そこから、元になった物語があるということを知って、吉川英治さんの「三国志」を読んで・・・あっちは全8巻だったかな?・・・その後はひと通り満足して、横山光輝さんの漫画だったり、NHKの人形劇の何回目か分からないくらいの再放送を見たりしていました。
それで、「小説版」としては吉川英治さんのものを読んでいるから、他のものは読まなくてもいいか、と思ってた部分は大きいと思うのですが、他に手を伸ばすことは今までありませんでした。三国志演義を主体としたものとしては、吉川版!と言われていましたし、他の翻訳版は、文章が読みづらい部分もありましたしね。
私がそうだったからというわけでもないですが、そういう人、結構いるんじゃないでしょうか?
そんな人に、北方謙三さんの「三国志」は、是非読んで欲しいと思います!
どうしても比較になってしまうのですが、それぞれの良さがあるのは、もちろん承知した上でいうと、北方三国志には、熱を感じます。
劉備が、徳の人なんかではないということ。
曹操が、残虐ではなく苛烈であるという事。
孫権が、天下を取る気なんて、全く無くしていた事。
三国志物なら、当然と思っていたエピソードに触れていなかったり、同じエピソードでも、まったく違う印象を与える側面からの描写だったり・・・今まで思っていた、歴史としての「三国志」が、まるで違う輝きをもって描かれていることに驚きました。
でも、エピソードはそうとしても、それだけでない熱気がある気がするのは、どうしてなんだろう?
そう思って文章を見ると、1人称視点で描かれている箇所が中心となって物語を進めていることに気付きます。
北方三国志は、とかく1人の人間を通して書かれている事が、歴史書としてのイメージを覆して、勢いのまま読ませる事ができているんだと感じます。
そもそも、三国志というのは歴史小説なので、色々な説明が必要な物語です。
1尺というのは、今のどれくらいだとか、当時の暮らしはどうだったとか・・・。
そういった説明なしには、理解が進まないものとして書かれるのですが、北方三国志での視点は違います。
本筋に関わらない説明は一切なく、必要な事は人物に語らせる。思考は思考のまま文章となる。
それが、小説としての流れを遮らずに、熱さと勢いをもったものにしているという印象です。
説明がないという事が、読んでいる側としては、登場人物の思考を読み、こういう人物なのかな?と自己判断しながら読み進める事になる。それが読んでいるところで冷める場面がないという文章の流れを作っている感じなのです。
それぞれの人物の思考描写で、一緒になって考え、敗残戦では一緒に逃げる。1人称という、感情移入のしやすさが、とても大きく感じられます。そして、その感情移入に水を指す文章はない。
「この戦闘でどうなったと言われている」なんて注釈は入らないし、「その頃・・・」なんて視線の飛ばしもない。
メタ視点のない三国志。
あくまで、そこには人物がいたんだと感じることのできる、今までそういった系統の三国志を読んだことのなかった私には、とても新鮮で、新しい三国志でした。
どうやら、原作無視な三国志と言われることもあるようですが、三国志という時代が好きな人なら、きっとこの熱さを感じることが出来ると思います。
三国志は、今流行でもないし、北方謙三さんの本作も、出版は文庫版ですらもう10年以上前。
そんなこと気にせず、良い物は良い!という事で、この夏の読書予定に加えてみてはどうでしょう?
逆に、流行りでないから、図書館で借りられる状態なことが多いですしね!
速読はきっと出来ないから、時間はかかると思います!
でも、本好きってそういう時間が何より好きなものだと、個人的には思ってますよw
それではまた!
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